西安通信

後 記


  もともと私は安先生の患者であった。OL時代から患っていた三叉神経痛、生理不順、膀胱炎などが、先生の推拿と鍼によってすべて治ってしまったのである。もちろん私自身も努力して生活を改善させた。先生の元に通うようになってからは我が家の冷蔵庫からアイスクリ−ムが消え、ビールよりも焼酎のお湯割りを飲むようになった。時々掟を破って冷たいものを飲み過ぎると、先生にはたちどころにバレてしまい、その後の治療は泣くほど痛かった。何故舌や脈を見ただけで、身体の状態はおろか生活や嗜好まで分かってしまうのだろう?東洋医学と中医学は違うのだろうか?疑問が興味に変わった頃、折りよく先生の故郷、西安へ語学留学することになった。
  中国で生活して分かったのは、人々の生活に中医学の概念が深く根付いていることだった。中医学の基礎知識は、一般常識として親から子へ受け継がれていた。難しい理論は知らなくても、身体のために良いことや病気にならないための注意が、日常生活の中で無意識のうちに行われているのだ。
 中医学を真剣に学ぼうとすると最低でも10年はかかると言われている。中医師には外科や内科といった区別はない。全科を受け持ち、推拿も鍼灸も漢方薬の処方も出来るという実にオールマイティーなお医者さんなのだ。そして最も重要な診断は、経験がすべてである。脈診も舌診も、自分の目で診て、指で判断する。いわば中医師の身体と脳は精密検査機であり、治療器具でもある訳だ。
  安先生は16歳の時、有名な中医師の元に弟子入りした。初日に一冊の理論の本を渡され、数日後また会う時までにすべて覚えておくようにと言われたらしい。その師匠は何ページの何行目に何が書かれているかまで覚えていたそうだから驚きだ。ちなみに中医学理論はすべて古文である。なにせ何千年もの歴史があり、中国哲学とも言える内容で、中国語がわかっても理解するのは難しい。
  そして次に安先生は武術を習い、意識と筋肉の持続性を養った。単純な動作を半日以上繰り返す。意識して体を動かす訓練を行うと、何時間同じ動作をしても疲れないと言う。だから推拿の治療を何人しても、安先生は涼しい顔をしていられるのだ。
  西洋医学と中医学では、治療方針がまったく逆のことがある。日本の鍼灸治療は西洋医学の概念が強く、痛む箇所を中心に鍼を刺すことが多い。中医学は痛みそのものよりも原因を追究するので、使うツボが局部とは限らないし治療後に痛みが増すこともある。速効性のある西洋医学に慣れている日本人には、中医学は確かに理解しにくいものだろう。ヘタをすると宗教的だとか霊感療法のように思われてしまう。
 私は西洋医学の知識を持たずに中国へ行き、原書で中医学理論を読んだせいか違和感はなかった。昔持っていた数々の疑問は、中国での生活で自然に解決されていった。中医師になるのは無理だが、中医学を日本人に分かりやすく説明することは出来るかもしれないと思い、帰国後は安先生の治療センターを手伝いながらこの「西安通信」を書いたのである。
 「西安通信」は患者さんへの配布を目的に、1994年秋から約月1回発行した。日本人の患者さんが疑問に思うことや日本人特有の病気をテ−マにし、安先生には中国語で説明してもらう。その録音テ−プと原書の中医学書を元にしながら分かりやすい日本語の文章にするのは結構骨が折れたが、すごく勉強になったし、改めて中医学の素晴らしさを知ることが出来た。中医学は自然の摂理に合ったものである。 中医学の知識を生活の中に取り入れれば、誰でも確実に健康になれるのだ。「西安通信」によって一人でも多くの日本人が中医学に興味を持ち、健康を手にしてくれたらと思う。
                                    
                                        1997年3月

                                         近藤 玲子